2023年1月7日

寝込んだまま気がついたら年を越し、家の外の空気を吸うこともできなかった正月を取り戻すべく、朝から雑煮を作る。そういえばここ5年は正月に帰省ができておらず、加えて自分一人のために行事料理を作ろうという気が起こらなかったので、雑煮を食べるのは5年ぶりだ。人と暮らしてよかったことの一つは、食べたいものを作ったり買ったりする口実ができたことだと思う。本当は自分一人のためにもそうすればいいのだけれど。

 

自宅のキッチンには備え付けのコンロがない。ガスコンロを買おうと引っ越し当初から思いながら卓上のIHコンロ1口で調理をして、気がつくと1年以上経っていた。ちなみにカーテンを購入したのは引っ越しから約2ヶ月後で、姿見はまだない。先日夫との散歩中に商店街のリサイクルショップで中古のガスコンロをみつけ購入。鍋が温まる速度が早く、温度調節も容易で格段に調理がしやすくなる。魚焼きグリルも初めて使用するが、初動では威力を舐めており、最大火力で餅を焼くとこうなった。

 

高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』の二谷なら、雑煮をつくり柳宗理の鉄フライパンを育てる私を軽蔑しながらカップラーメンを啜るのだろう。私や周りの人はごはんを作ったり食べたりがこのままま嫌になりませんように、と思う。

2023年1月6日

今日も家にいる。妹が「休みの日に仕事のことを考えても給料は発生しないので無駄」と言っていて、それは本当にそうだよなと思う。似たような環境で育ち、似た遺伝子をもつ人間であるのにこうも気質が異なるのは不思議だ。妹の動じなさを私は密かに尊敬しており羨んでもいるが、本人に伝えたことはない。

 

給料が発生せず愉快でもないことに時間を使うのは無駄なので、ポッドキャスト又吉直樹の芸人と出囃子』を聴きながら、換気扇周りなど普段しない箇所の掃除をする。又吉直樹さんが毎回異なるお笑い芸人をゲストに招き、その芸人の出囃子にまつわる話を聞く番組。出囃子を出発点として、音楽遍歴や家族、学生時代についてなどに話が波及していく。聞き手としての又吉さんも素晴らしく、相手のことを否定するでなく笑いに変える手腕や、ゲストを輝かせるパスの出し方に毎回感嘆してしまう。

 

open.spotify.com

 

しかし過去の著作などから推察して、又吉さんがただただ穏やかな人間であるかというときっとそうではないと私は思っている。小説『人間』では、又吉さんの分身であると思われる芸人が、あるコラムニストに「作家気取りのお前は芸人失格」といった内容の記事を書かれて狂気の長文メールで反撃をするシーンがある(小説がいま手元になく、細部が誤っていたら申し訳ありません)。明言はされないものの、現実で又吉さんについて書かれたあるウェブ記事と明らかに関連があると思われ、初読で「これが、大人の喧嘩…!」と思ったのを覚えている。そういう激烈さを抱えたうえで穏やかに人と対話できることが私の憧れる大人像の一つで、「想像力が欠落した豚は黙っていろ!」(又吉直樹『東京百景』)と時に心の中で唱えながら微笑みたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自宅療養7日目

今日で政府に定められた療養期間は終了。しかし仕事へはさらに6日後から復帰するようにと今朝電話で伝えられ、「するべきことが何もない時間」が予想よりも長く目の前に現れてしばし呆然としてしまう。職場に中途半端に残してきた仕事を誰かが肩代わりしてくれていることや、今家でぼんやりしている自分から預けられた仕事を、復帰した自分が泣きそうになりながら必死で捌くことを想像するとなるべく早く仕事に戻りたいが、どうしようもない。そして、毎日ぎりぎりで働いてきた流れが急に断ち切られたことで、もう全部がどうでもよくなって、私は全て投げ出して動くのをやめてしまうのではないかという恐怖が微かにある。しないけど。

 

毎年、たいして強い意思もなく抱負を掲げてはいて、今年は「考えてもどうにもならないことに思い悩まないこと」としたが、そんなことが可能であった日は去年までも今年に入ってからもない。アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーが説教で口にしたという祈りをたまに思い出す。

 

神よ、

変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、

識別する知恵を与えたまえ。       ラインホールド・ニーバー(大木英夫 訳)

 

O God, give us
serenity to accept what cannot be changed,
courage to change what should be changed,

and wisdom to distinguish the one from the other. 

                   Reinhold Niebuhr

 

私に変えることのできるものはほんとうに限られていて、それが分かっていても、変えることのできないもののことをただ考えては人生の4分の1くらいの時間が無駄になってきたように思う。なるべく早起きして、掃除や洗濯をして、運動をして本を読んで、ごはんを作って食べて、新しい鉄フライパンのことを考えるのをとりあえずやろう。

 

 

 

 

自宅療養6日目

変化の少ない生活を送っていると、いつからこんな暮らしが続いているのか分からなくなってくるが、今日でコロナウイルス罹患から6日目らしい。

 

嗅覚については、低下していることに気がついた一昨日を10段階中の1だとすると、昨日ベットの上でヨガをやった直後に3程度まで回復した気がしている。自律神経が整うと嗅覚にも影響があるのだろうか。

 

家にいる時間に、私の仕事に関連する講座の動画を毎日少しずつみている。この仕事を始めて3年目になっても、患者に対する自分の言動や手技が最適であるのか分からずに苦しいことが多い。もう少し仕事を楽しくやっていけるように課金しようと思い、昨年の半ばに、専門に関する講座のサブスクのようなサービスに加入した。色々と良心的なサービスで、臨床で疑問を感じた際に頼るところや手がかりが増えることは心強く、携わる人に感謝をしている。

 

今みている脳の構造と機能についてのシリーズ講義の先生は、毎回Hard Rock CafeのTシャツを着ていて、毎回異なる北欧の国名が書いてあるのだが、各国のHard Rock CafeのTシャツを集める趣味があるのだろうか。愛着や共感、嫉妬などあらゆる感情は脳の働きによるもので、それを担当する脳の部位やネットワークもある程度決まっているという事実は、心という実態のないものの動きを仮定するよりも時に安心できる。例えば、人が不安や社会的排斥による痛み、妬みなどを感じている時には前帯状回が活性化するが、運動によってセロトニンが排出されるとそれに相関して前帯状回の運動が減弱するそうだ。そして個々の身体とその機能が異なるのと同様に、脳の各領域の構造や活動性も個々人で異なることも、「どうしてあの人はこんな言動をするのか」という問いの一つの答えであり、「人間性」などという不確実な要素を答えとして持ち出さなくてよいことで心穏やかになれる気がする。

 

スマートフォンのキャッシュを消去したら動きが軽くなったり、エアコンのフィルターを掃除すれば空調の効きがよくなるように、晴れていれば気持ちが軽くなり、外を歩いて風に当たり自分以外の生き物を目にすれば意味もなく楽しくなる機能が私にあることがありがたく、よくできていると思う。

 

 

療養生活5日目

昨日の昼食に義父から頂いたふるさと納税返礼品のパンを食している時にも、かなり鼻を近づけないと香りを感じられず、長年の念願であったZopfのパンを存分に味わえないのは惜しいが、鼻炎がある今は仕方がないなとその時はたいして気にしていなかった。しかし、ロクシタンのハンドクリームの香りをうっすらと嗅ぐことができたのがおそらく最後で、これは何かおかしいと思い嗅いだアロマオイル、シナモン、洗剤などの匂いが全く感じられず、次に同じハンドクリームを嗅いだときにはその匂いも分からなくなっていた(のちにオタフクソースとごま油の香りのみは微かに分かることが判明)。

 

調べる限り嗅覚障害の確実な治療法は確立されておらず、多くは1ヶ月以内に改善するが、まれに長期間嗅覚が戻ってこないケースもあるとのことで急に不安になる。

 

食事も甘い、辛い、しょっぱいなど大まかな味は感じられるものの、香りがしないことで、こんなにも味わいが平面的になるのか。興味深く感じる一方で、食の楽しみが半減していることの悲しみと残念さが大きい。「実際に経験してみないことには分からないな」とありきたりなことを思う。

 

病によって以前とは違う自分になった人たち、みんなもっと不安な時間をやり過ごしているのだろうか。病と隔絶と孤独について、人間の分かり合えなさとそれでも生きていくことについて書かれていた頭木弘樹さんの『食べることと出すこと』を今すごく読みたいが、手元になく叶わない。

 

 

 

自宅療養4日目

コロナ罹患が判明する前に購入していた親族へのお土産や父親の還暦祝いを、夫を通じて妹に預ける。私がそこにいなくても、私の好きな人たちが和やかに時間を過ごしていれば、それでいいと思えてきた。ほんとかな。

 

離れた場所に暮らす大切な人たちのことや、近くにいる人とのわかりあえなさを思うとき、それから、病院で患者さんの枕元の写真に、今とは別人のような本人やとその家族が写っているのをみるとき。矢野顕子の歌声と、その歌に着想を得て制作された映画「LOVE LIFE」のいくつかのシーンが脳内に再生される。


www.youtube.com

 

 

LOVE LIFE

LOVE LIFE

  • provided courtesy of iTunes

どんなに離れていても 

愛することはできる

心の中広げる やわらかな日々

すべて良いものだけ 

与えられるように

ーLOVE LIFEー

 

もう何もほしがりませんから

そこに居てね

ほほえみくれなくても いい でも

生きていてね ともに

      

                             矢野顕子『LOVE LIFE』

自宅療養3日目

記憶にある元旦はいつも晴れている。コロナの自宅療養2日目の今日もそう。カーテンを全開にした窓から一日中同じ空を見ている。

 

コロナの症状としては、おそらく昨晩のまれにみる強度の腹痛とそれに続く下痢や悪寒がピークではないかと思われる。そして、一番安心したことは、接触した患者さんは今のところ陰性であること。それを聞くまで昨日は吐きそうで、気を紛らわせようと読む本や記事も、文字の上を目が滑っていくようだった。

 

とはいえ、そうであったかもしれない現在や未来のことを考えずにはいられない。夫やその母、兄と、年が開けてすぐの真夜中に和歌山の海辺の道を「星がきれいやね」と言いながら歩く時間、病院で担当患者や同僚と「良いお年を」「あけましておめでとう」と決まりきった挨拶を交わす時間、私の実家で父が還暦祝いのパジャマを着ているところをみたり、こたつで大富豪をする。そんな架空の時間の映像が頭の中に浮かんでは消える。

 

「行った旅行も思い出になるけど、行かなかった旅行も思い出になるじゃないですか」とは坂本裕二脚本の『カルテット』ですずめが口にする言葉であるが、果たしてそうなのか。すずめさん、私の脳内にあるだけで実際には起こり得なかった思い出や景色も、触れたり網膜に写したものと同様に美しいといつかは思えますか。あちらを選ばなかった、選べなかったから手に入れた時間があり、待ち望んでいた時間も期待通りになるとは限らないことも本当は分かっているけれど。

 

散歩に行く夫に頼んで、目にした風景の写真を撮ってきてもらった。あの公園でも、別の公園でも子供たちが凧を飛ばしている。